走れば早く着く。

トレイルラン、オリエンテーリング、登山に関するブログ。

トレイルランニングことはじめ

はじめまして、ランブラーです。

ちょうど自身のblog「夜明けのランブラー」を今後どうするか?考えていて、

「何か変えなければ!」

と思っていた矢先に縁あって今回のMMAブログの話をタイミング良くいただき、流れに身を任せるままにこちらに参加しようと思いました。また新たな出会いがあると思うと今からワクワクしています。今後ともよろしくお願いします!

さて、

『先ずは、自己紹介から』

最近は、トレラン王国で発売している「J-TRAIL」でギアレビューを書いたり、DVD「ハセツネドキュメント2012+PLUS」でランニングカメラマンとして登場していたり、自作のカーボンストックを作ってみたり、UTMB(CCC)にも出てるらしいけど、いったい何者なんだろう?というのが実際に会った人が思っている印象のようで、よく「で、職業は何ですか?」と聞かれます。たまにストック職人だと本気で思っていた人もいたり(笑)。でも、実は自分でも何者かが良くわからなくなっていて、今回このMMAでblogをスタートするにあたり、これまでの経緯を全く知らない人が読むので自己紹介も兼ねて、今後の自分のモヤッとした方針を明確にするためにもトレイルランニングを始めるまでを振り返ってみたいと思います。長くなったので3回に分ける予定。

『山を歩きはじめたきっかけ』

走る前に、先ず山を歩き始めたのは、仕事でゲームソフトの企画・ディレクションをしていて、あるゲームで山を歩くステージがあるのだけど、

「山を全く知らないで山の世界を作るわけにはいかない」

と思い、2005年夏に新宿から夜行バスに乗って富士山へ取材に行ったのが最初の山経験だった。

[caption id="attachment_16" align="alignnone" width="300"] (あくまでイメージです)[/caption]

その夜はとても晴れていて、ヘッドライトが要らないくらいの月明かりと無数の星。そして富士の裾野に広がる綺麗な夜景が始終見えていて、そして夜明け前に頂上に着くと、東から朝日がのぼり、反対側では月と星が沈み、東北まで見えるのではないか?と思えるほど遠くまで見通せるダイナミックな雲海が広がり、その自然が作るスペクタクルな光景に衝撃を受けた。

[caption id="" align="alignnone" width="240"] その時の写真(ケイタイで撮影)[/caption]

「外国に行かなくてもこんなに素晴らしい世界が自分の脚で行ける所にあるんだ!」

という事を知り、下山後に早速登山の本を買いに本屋へ行った。もしその日が雨や曇りだったら?山にはハマらなかったかもしれない。下山した時は雨だった。

 

『ウルトラライトハイキングとの出会い』

初めての富士登山の翌年の2006年夏に登ったのが日本で第3位の高さを誇る奥穂高岳だった。高い所から攻めていこうという思いから奥穂高岳を選んだ。また、その景色を綺麗に残したいと山道具以外に今のようにミラーレス機も無く、重たい1眼カメラを持って行った。富士山に登れたのだから行けるだろうと思っていたのだが、その考えは甘かった。奥穂高は富士山のように優しい山では無く、体力が無いので頂上に登った頃には疲弊して脚がボロボロで写真どころでは無かった。また、山小屋に泊まったのだけど、狭い部屋にギュウギュウに詰められて、全く知らないオジサンと恋人でもこんなに接近して寝る事はないであろう、鼻息がかかるくらいの距離で寝ることになり、そして耳栓を着けていたが、イビキが床から身体を通して骨伝道のように伝わって来て耳栓が全く機能しなかったり、身体的にも精神的にも山にコテンパンにやられて下山をしてきた。山歩きとはこんなに重い荷物を持って、しかもこんなに辛い思いをしなければならないのか?オジサンの鼻息から逃げるには先ずは山小屋に泊まらなくて済むテントとシュラフを持てばいい。しかし1眼カメラを持っていくと荷物はさらに重くなる…いったいどうしたらいいだろう?と思っていたところに、その頃blogが浸透しはじめた頃で、何やらULTRA LIGHT HIKING(以降UL)という荷物を軽くして身軽にハイキングを楽しむムーヴメントがあるのだと知り、これならカメラを持って行っても荷物が軽くて済むし、山を始めたのも30代半ばで山を歩ける身体が出来ていない自分にとってULの思想はまさに福音であり、迷わず飛び込んで行った。そして、自分のように遅い山デビューの人が何か役に立つのではないか?と思い、その行動記録として始めたのが「夜明けのランブラー」というblogであった。

[caption id="" align="alignnone" width="500"] 26Lのザックにテントとシュラフを詰めて北岳へ (2007年8月)[/caption]

「名前の由来」

Ramblerというのは、

(公園やいなか道などを)ぶらぶら歩く人

という意味だが、夜中にフラフラする人だとお酒や薬をやってる人となってしまうが、夜明けにフラフラするのは「ハイカーとして意志を持って朝の山の中をふらふらしているんだ」という意味を込めてつけたものだ。

 

トレイルランニングとの出会い』

そして、blogやmixiを通して出会った山仲間達が揃って2007年のハセツネCUPに出るというので気軽な気持ちで応援に行き、その仲間達が夜通し山を走って来てボロボロになりながらゴールしてくる姿に感動して、自分もやってみようと思ったのがトレイルランを始めるきっかけだった。しかし、それまでは、むしろ出来れば走りたくない。いかに身体的に楽をするか?辛いのが嫌だからULに傾倒したのだし、運動部経験さえない自分がまさか走ろうだなんてその時までは1mmも思っていなかった。

[caption id="" align="alignnone" width="240"] blog「自転車とアウトドアライフ(遊び)」のmorikatuさんの雄姿に感動![/caption]

 

しかし、走ろうかどうか迷っていた気持ちを察した山仲間から、

「走ると人生変わるよ」

って言われて、そうなのかな?じゃあ少し走ってみるか。合わなければ止めればいいんだし、って背中を押されて走ることになった。そして、2008年元旦に走りはじめた。どうせやるなら「目標は71.5kmのハセツネCUPを完走すること」と大きく掲げblogに書いて退路を断った。しかし、その日は500mも走れない状態だった。その時の自分にとって71.5kmは途方も無い距離であり、その年10月に開催されるハセツネで本当に完走できるのだろうか?頭の中は毎日その不安とプレッシャーでいっぱいだった。

 

『いかに楽に走るか?』

山もランも遅いデビュー。どんな手段を使ってでも完走したかったので、ハセツネCUPでは第一関門以降からストックの使用が許可されている。ストックがあれば歩きでも完走に近づけるに違いない。そう思って、渋谷のODBOXに当時最軽量のストック「Foxtail」を買いに行ったのだが、もうメーカー生産が終わっていて買う事が出来なかった。なんとか手に入らないものだろうか?とヤフオクも探したがマイナーなスポーツでマイナーなギアなのであるわけが無い。

であれば、無いなら自作するしかない。どうせ作るなら既製品を驚愕する軽さと剛性のあるストックを作ってしまえ!と思って作ったのが、当時存在しなかった折りたたみ式のカーボンストックであった。ULハイクではMYOG(Make Your Own Gear)という空き缶でアルコールストーブを作ったり、薄く丈夫で軽い生地でタープやザックを自作する流れがあったので、自作でストックを作る事もそう迷わずに始める事が出来た。普通ならたくさんのトレーニングを積んで強い身体を作って完走しようという方向に努力をするのだろうが、そのがんばりを道具に求めてしまうのは自分の性格なんだと思う。

[caption id="" align="alignnone" width="375"] 最初に作ったカーボンストック。この時はまだ二つ折りであった。継ぎ目の白いテープはハセツネでの夜間を意識して反射テープを貼っていた。[/caption]

 

『初めてのハセツネCUPを走って』

そして迎えた2008年10月のハセツネCUP。深夜の山中を不安無く走れる(もし倒れても誰かいる)このエキサイティングでクレイジーな状況が楽しく、そして、自分で作ったストックを使って13時間10分で完走。元旦に500mしか走れなかった自分が、ハセツネでのサブ4的な意味のある12時間台完走まであと10分というところまで迫る事が出来た。金毘羅尾根を走って下っている時、これまでやってきた全ての断片(ピース)がパズルのようにがサクサクとハマっていくような快感を味わってしまった。その体験からトレイルランの世界へとますますハマる事になる。

[caption id="" align="alignnone" width="240"] 自分をトレイルランに導いてくれた、愛する山仲間たち (2008年10月)[/caption]

 

つづく
(次回はトレイルラン歴2年未満で参加したUTMB(CCC)について)